鴎外と文京区
鴎外の住まい「観潮楼」
観潮楼(かんちょうろう)とは、1892(明治25)年鴎外が30歳のときから、1922(大正11)年60歳で亡くなるまで、家族とともに住んだ家です。家の2階からは遠く海が見えたと言われ、鴎外により観潮楼と名づけられました。 観潮楼は、鴎外がひらいた歌会の会場としても使われました。会には、石川啄木、斎藤茂吉、木下杢太郎なども来会、鴎外により西洋の最新の文学事情が伝えられた会でもありました。 |
観潮楼2階 |
鴎外は、若者たちから千駄木のメエトル(先生)と呼ばれ、歌会は観潮楼歌会と呼ばれるようになったと言います。観潮楼は、まさに文人たちのサロンでもありました。
鴎外の足あと
文京区には、鴎外ゆかりの場所がたくさんあります。
上京して最初にドイツ語を学んだ本郷の進文学社、医学を修めた東京大学医学部、千駄木町57番地(向丘)の家(後に漱石も居住)、そして「観潮楼」です。
通勤には大観音通りを行き、白山から電車を利用しました。夕食後の散歩は、白山から本郷三丁目まで歩き、根津を通って戻ります。休日には小石川植物園などに出かけました。 鴎外の見た明治の文京の姿は、小説「青年」や「雁」などに、うかがうことができます。